その家のドアには「忌中」の文字。
ここは佐賀県南東部、みやき町。
田んぼの景色が広がるとある集落にその家はある。
今回訪問させていただいたのは弓家だ。
この辺りには弓の姓を持つ家が連なっているらしい。
聞くところによると、500年前、大分から移り住んできた弓一族がこの土地に集落を築いたと
いう。
訪ねた弓家は近隣の土地を多く所有する地主で農業だけでなく金貸しもしていたようだ。
しかし、戦後に行われた農地改革によって、その土地はタダ同然で買い上げられていったという。
そんな弓家の仏間には歴代の筆頭者やその配偶者の肖像画や写真が飾られている。
戦争や農地改革の頃、弓家にいたのは現在の2代前。
初代から数えると3代目の小四郎さんだ。
小四郎さんは5年前に亡くなった。
6代目に当たるひ孫の話によると、小四郎さんは97歳まで自転車に乗っており、コンビニに炭
酸飲料のファンタと、からあげクンを買いに行く姿が印象的で、ひ孫の同級生からは「ヨーダ」
というあだ名をつけられてたという。
戦争や農地改革だけでなく高度成長期、バブル経済、IT革命......私が教科書で習った激動の時代
を生き抜いた小四郎さん。100歳の大往生だった。
その息子である4代目は正敏さんである。
正敏さんは農業の学校に通ったのち、農業を続けながら工務店でも働き始めた。
その工務店で出会った女性と結婚。奥様の家族が営む運送業に転身した。
のちに会社はクレーン業になり、そのクレーンの仕事で独立をした。
農業をしながら夫婦二人で始めたクレーン業だったが、今から18年前に奥様が60歳という若
さで他界してしまう。ガンだった。
「両親はとても仲が良かった」と息子であり5代目の卓也さんは言う。
ただ正敏さんが酒を飲むときだけは喧嘩をしていたらしい。
正敏さんの奥様は「酔っ払いがいっちょん好かん」と言って一切お酒は飲まなかった。
彼女のガンが判明した時、正敏さんは医者からの告知をオロオロすることもなくただ静かに聞いていた。
告知の1年後、手術や治療はとうとう実らなかった。
のちに正敏さんは6代目に当たる孫にお風呂の中でこう話したという。
「スッポンの血ば飲まんけん、早う死んだろうが」
スッポンの血。奥様の回復を願って止まなかった正敏さんの気持ちが伺えるエピソードだ。
さらに同居していた家族は声を揃える。
正敏さんは奥様が亡くなった直後だけでなく、数年経ってもよくお風呂場で泣いていた。と。
(つづく)