尾崎人形に秘められた異国との交流。人形が宿す、土地の歴史と作り手の人生。(尾崎人形 後編)

EDITOR'S コラム 神埼市 知る出会う

尾崎人形に秘められた異国との交流。人形が宿す、土地の歴史と作り手の人生。(尾崎人形 後編)

(写真)作り手の高柳政廣さんと、支える城島正樹さん。

素朴な尾崎人形の秘められた、壮大な歴史ドラマ。

「なんもなか(=なにもない)」が口癖の佐賀の人たちにこそ伝えたい、地元に眠る地域資源。九州北部の筑後地域を中心に、地域のものづくりと文化を紹介するアンテナショップ「うなぎの寝床」がピックアップした、佐賀の知られざる魅力を紹介します。

前回ご紹介した、佐賀県神埼市で作られているゆるゆる郷土人形の「尾崎人形」。作り手のの高柳さんにそっくりな癒し系の風貌に、郷土人形コレクターから初めての方までファンも少なくありません。

そもそも尾崎人形はいつ頃から佐賀で作られているのでしょうか。そしてなぜ高柳さんは尾崎人形作りに関わるようになったのでしょうか。素朴な人形からは、一見すると想像のできない歴史ドラマを、作り手の高柳政廣(たかやなぎ・まさひろ)と制作・販売をお手伝いされている佐賀一品堂の城島正樹さん(じょうじま・まさき)から伺ってきました。

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赤毛の子守(左)とアーティストの方による高柳さん人形(右)

尾崎人形の始まりとモンゴルとの繋がり。土地の歴史を伝える媒体として。

実は尾崎人形が作られている佐賀県神埼市の尾崎地区は、かつては「肥前尾崎焼」という焼き物の産地だったところです。もう既に窯は途絶えてしまっていますが、尾崎地区のあちこちに、火鉢や尾根瓦など黒いどっしりした焼き物が残っています。

現在地元に伝わっている尾崎人形の言い伝えでは、1281年の蒙古襲来(元寇)の際に、捕虜となった蒙古(現モンゴル)兵たちが焼き物の技術を伝えたとことが始まり、とされています。しかし実際モンゴルの歴史に詳しい方に聞くと、当時モンゴルには窯業技術はほぼなかったと聞くので、もしや歴史ロマンで色付けされたのか・・・。

と思いきや、尾崎地区には捕虜が捕らえられたとされる「蒙古屋敷」と呼ばれる場所が残っています。城島さんによると、元寇当時は今ほど干拓が進んでおらず、今は内陸部である尾崎地区は海岸線からそう遠くはなかったそうで、現在の「蒙古屋敷」の場所は、元寇で活躍した武将が与えられた土地だったという記録も残っているのだそうです。

専門家じゃないのでこれは予想でしかないですが、おそらく尾崎地区で捕虜として捕らえられたのは、当時モンゴルの支配下にあった中国や高麗(現在の韓国)などの兵士たちだったのかもしれません。焼き物が盛んだった中国・韓国の兵士たちが、よくしてもらったお礼にその技術を伝えたというのは十分ありうる話です。

真偽のほどは定かではありませんが、伊万里・有田など1590年代の秀吉の朝鮮出兵の時に伝わった窯業技術よりも早く、尾崎地区に伝わっていたとするととても歴史ロマンがありますし、何よりもそんな土地の記憶が地元の人々によって言い伝えられ、尾崎人形が媒体となって保存・継承がされていること自体に、郷土玩具としての大切な機能を感じます。

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肥前尾崎焼の火鉢。黒く滑らかな肌が特徴的。

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蒙古屋敷跡。河野氏が元寇の後に与えられた土地とされる。

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現在は竹林と祠だけが残されている。

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蒙古屋敷跡に残る祠。

戦後の激動の時代を生き抜き、辿り着いた「焼き物」という家業。

しかし長く続いてきた肥前尾崎焼と尾崎人形も、1960年代頃に次々と廃窯し、最後の1件だった窯元が移住したことで、地元尾崎地区では途絶えてしまいました。しかしせっかくの伝統を途絶えさえてはいけないと、1990年に当時の尾崎地区長だった八谷至大(はちや・よしお)さんら3名が「尾崎焼保存会」を立ち上げ、人形専用の窯を築き、尾崎人形だけが復活します。

その八谷さんが2009年に亡くなった後、「伝統を引き継がなければ」と八谷さんから生前に技術を伝え聞いていた縁で、8年ほど前に63歳で後を引き継いだのが、現在の尾崎人形の作り手である高柳さんなのです。

実は高柳家も代々、肥前尾崎焼の窯元でした。高柳さんも小さい頃、父・勝(まさる)さんが窯で焼き物を作る姿を見て育ちました。しかし、太平洋戦争で足を切断する大怪我をしていた父・勝さんは、生業になるほどの生産はできず、政廣さんが中学生の頃には廃窯されたのだそうです。

そんな戦後の貧しい時代、高柳さんは中学を卒業後、ガス会社や自衛隊などで働きます。本当は自衛隊で北海道に行きたかったそうですが、長男だったこともあり、父・勝さんから「帰ってこい」と言われ、地元の製缶会社に25歳で就職し62歳まで勤められるのです。

焼き物の仕事はお金にならない」といわれて育った高柳さん。尾崎人形の製作も機械や型代など投資がかさむばかりで、最初は正直大変さしか感じなかったそうです。しかしやるからには人の真似ではなく、自分にしかできないことをしなければという思いから、既存の型以外にも、新しく干支シリーズや謎の新作シリーズもあれこれ登場。

今では全国10件以上に卸され生産が追いつかない人気ぶり。お会いする度に「もう大変だからそろそろやめたい」とおっしゃりながら、世界中からお客さんが訪れ、ご自身もイベントや催事で全国に行かれ、地元の小学生にも尾崎人形の絵付け体験で先生をしたりしていることを話す様子が、なんだか楽しそうな気がする・・・のは私だけでしょうか。

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昔は競馬が好きだったけど、今は1円パチンコがいい、と語る高柳さん。

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2009年に高柳さんが尾崎人形を引き継いだ時の新聞記事。

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尾崎焼の火鉢に残された「元祖 高柳製」の刻印。

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1990年に八谷さんが尾崎人形を再興した際に作った窯。

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発掘された昔の鳩笛の型と、隣で笑う長太郎人形。

まとめ

郷土人形には厳格なルールはありません。代々伝わってきたエピソードや、型はありますが、表現方法は作り手にゆだねられています。製作をはじめてからはたった10年あまりですが、高柳さんの作る尾崎人形には、高柳さんの人生が詰まっています。それと同時に、佐賀県神埼市の尾崎地区という土地の歴史と文化を、次の世代に伝えていく媒体としての役割もあるのです。

何百年も続く歴史と、その間に関わってきた人形の作り手たちの人生を考えると、素朴な尾崎人形が突如壮大な物語に感じられます。その中では作り手さんも私たちも、バトンをつなぐ1プレーヤーでしかありませんが、次に繋げていくためにも、変わりゆく時代へ適合させていく工夫と挑戦も大切です。

高柳さんが作る尾崎人形のすごいところは、作為的ではなく自然な形で、この挑戦と適合をされているところ。おそらく高柳さんご自身がとても正直で自然体で、ほどよく肩の力を抜きながら、新しいことにも楽しく取り組まれていることにヒントがあるのかなぁと思います。干支シリーズを始めてもうすぐ7年、「寅年まではなんとか頑張る」と語る高柳さん。城島さんと二人三脚で、これからまたどんな作品を作られていくのか、楽しみです。

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来年の干支「戌(いぬ)」の準備も進んでいる。絵付けが楽しみ。

情報

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鳩笛の別名「ててっぷう」。郷土を思う蒙古兵たちの思いが込められているという。

尾崎人形保存会 高柳政廣

住所:〒849-0303 佐賀県神埼市神埼町尾崎546

電話:0952-53-0091

営業時間:(事前にお問い合わせください)

定休日:不定休

見学:3日前までの電話予約で可

うなぎの寝床
リサーチャー(広報企画)・通訳

渡邊 令

1989年東京都生まれ、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)社会人類学部卒業。その後福岡のポンプ会社で社長秘書を勤めた...

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