今から約1年前のある日の事。
以前に比べ正敏さんのお腹が出ていることに息子の卓也さんの奥様、美香さんが気づいた。
かかりつけの病院に促され大きな病院でも検査をした。
そこで正敏さんに告げられたのは自分の奥さんと同じ病名だった。
「何もしなければ余命3か月でしょう」
家族にはそう告げられた。
その日の晩、弓家には食事会と称し、卓也さんの妹家族も含め皆が集まった。
「どうしようかね」
家族全員で、できることや思いを話し合ったという。
手術は受けさせないことにしたが、病院の抗がん治療だけでなく、出来る限りの事はしたいという思いでガンに効くというゼリー状のお水を購入したりもした。
一方、本人はというと、告知直後はお酒もタバコも控えていたのだが1週間もするとすべて再開した。
ある日堂々と焼酎を飲んでいるので「何ば飲みよっと!?」っと驚いた家族が問いただすと、
「焼酎をビールで割っているから大丈夫」と答えたという。
お酒を飲むと怒られるのがわかると、その後は湯のみを持って台所に来てはお茶を入れるふりをしてお酒を注いだり、「アイスを取って来る」と言って冷蔵庫のある外の小屋から戻ってくると、ポケットからビールが顔を出していたり、といった調子で隠れて飲んでいたらしい。
治療や介護の甲斐もあってか、予告されていた3ヶ月は過ぎたものの家族がいつも平穏だったわけではもちろんない。
抗がん剤治療中は幻聴や幻覚の症状が見られたほか、息子である卓也さんとぶつかることもたびたびあった。
病の発見から10ヶ月が過ぎた今年の夏のある日、歩くのがキツいというので病院に行くと、即入院と言われた。
そこから3週間あまり、79歳の誕生日を迎えた3日後、正敏さんは多くの家族に見守られその生涯を閉じた。
美香さんは言う。
「余命3か月の告知で、心の準備をしてある意味終わりを意識できたことで、一生懸命家族皆で協力しながら介護に取り組むことができたのはとても大きかった。
ただ亡くなるまでの1年近く、いつも目の前にいるので亡くなるという感覚はないんです。
毎日見ているので見た目の変化にも気付かないし、まだまだずっと続くものと感じていました。
二十歳過ぎで結婚してから30年間、自分の両親より長く暮らした義父が亡くなってしまい、今はとても寂しいです。」
お通夜にはどこから聞きつけたのか、大勢の人が訪れた。
その日の夜、家族15人は夜中の3時を超えるまで正敏さんを囲み、皆で泣くは笑うはの大宴会になったという。
その時亡くなる直前まで飲みたがっていた大好きなビールも飲ませてあげた。
「不謹慎という人もいるかもしれないけど、そんなのもいい」
息子の卓也さんはそう振り返る。
そして孫たちが思いだすのは
「やっときゃやらんばいかんばい!」
という言葉。
じいちゃんの酔っ払った時の口癖だ。
(正敏さんの小屋の前にて)
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(あとがき)
5話目と6話目に登場する弓家は、私が運営する写真館「ハレノヒ柳町フォトスタジオ」のスタッフの家族です。
彼から「じいちゃんにガンが見つかって、あと3ヶ月らしいので家族写真が撮りたい」と相談されたのはちょうど1年近く前。
私はうちのスタッフになったばかりで写真も撮れない彼に、カメラをじいちゃんに向けてじいちゃんと向き合うように促しました。
あれから1年、彼も参加していたハレノヒ写真教室の課題で作ってきた写真集には、その向き合った姿がしっかり記録されていました。
記事中のモノクロ写真はその弓くんが写してきた写真です。
(じいちゃんとハレノヒスタッフ弓くん)
今回、家族の死というデリケートな話題にもかかわらず、取材に協力してくださった弓家の皆様に感謝申し上げます。
そして何より、正敏さんの御冥福を心よりお祈りいたします。
(昨年撮影した弓家の家族写真)
最後に、
入院中、正敏さんにはその天井に畑が見えているようだったとご家族に伺いました。
作業のことやビニールハウスのことをずっと気にかけて家族に指示を出したり、「畑に行かなきゃ」と言うこともあったそうです。
私にも必ずその時がきます。
その時に自分が見ている景色はどんなものなのか?
かけがえのないものを見つけるための日々を大切に過ごしたいと思います。
(弓くんが写したじいちゃん)