今から27年後の2045年には平均寿命が100歳になるらしい。
こんな話題が世間ではささやかれているが、本当だろうか?
私は今年43歳。つまり100歳になるためにはあと53年必要である。5年後ですらどうなっているかもわからないのに50年先なんて全く想像できようはずがない。
佐賀県小城市。その100年を生きている一人の女性がいる。
彼女の名前は末森時子さん。今年の6月10日にちょうど100歳を迎えた。
今から100年前である西暦1918年は和暦にすると大正7年。
ちなみに誕生日である6月10日は彼女の生まれた2年後の大正9年「時の記念日」として国に制定されている。不思議な偶然である。
一応歩行器は使用しているもののしっかりとした足取り、はっきりとした口調、そして目の輝き。
少し耳は遠いようだが、それでも私の声にしっかり反応してくれる。
彼女は現在の多久市に6人兄妹の3番目の子供として誕生した。
父は農家を回り量産を指導する農業指導者という仕事で、母は助産師だったという。
教育に関心の高かった両親は、時子さんを当時女性では村から一人ほどしか進学しなかった女学校に進ませてくれた。そして卒業後は故郷佐賀を離れ山口県にある日本赤十字看護学校に進学。
時代は世界大戦の真っ只中、3年間の看護学校の勉強を終えると彼女は従軍看護師として戦地に赴くことになった。
シンガポールやスマトラなど南方に配属された彼女であったが当初は激しい戦闘も多くなく、さらに配属された陸軍病院は後方に建てられていたため、大変ではあったものの危険を感じることは少なかったという。
しかし、月日が流れ戦闘が激しくなってくると職場の雰囲気は変わっていった。負傷した兵士は一旦病院で手当てされ、その後船に乗って本国に戻るというのだが、来るときは空っぽな船も帰りは負傷兵でだんだん一杯になっていったという。
病院船と言われる船に乗ることもあった彼女、この取材時には「病院船は攻撃しないという約束が国家間であったから怖くなかった」と言っていたが、ご家族の証言によると時子さんの乗った船の周りの船が攻撃され沈んでいく経験もあったらしい。
「日本は負けるんじゃないだろうか。そうなったらどうなるのだろう......」
そんな不安を感じながら彼女は帰国の途についた。船がついた舞鶴港から配属先の霧島に移動する途中の広島では原爆の被害にもあってしまった。
この取材時に時子さんが繰り返し話してくれたあるエピソードがある。
それは霧島に戻ってからのある日、東京にある赤十字病院の本部から俸給を持っていく人員がいないため、彼女が代表として受け取りに行ったときのこと。
東京駅に着くとそこは一面焼け野原。幸い本部は残っており俸給を預かることができたという。
「この21人の1年分の俸給を預かって東京から帰るときが今までで一番怖かったんです」
数々の恐ろしい景色を目の当たりにしているだろうにもかかわらず、彼女が話した1番の思い出はこの話である。
彼女は自分を「呑気な性格」だと言う。
100歳を生きる人とはそうなのかもしれないなと思った。
(続く)