霧島で終戦を迎え、故郷の佐賀に帰って来ることが出来た時子さん。
無事では帰ってこられないかもと思っていた両親はとても喜んでくれたという。
しばらくすると学校の養護教諭として働き始めた。
そこでご主人と出会い結婚。4人の娘をもうけながら教諭の仕事は続けた。
「100年なんてあっという間」と言う彼女。
子供を育て、母親の看病をし、その後自分の夫や姉の看病もした。
そして休む暇もなく孫のお守りと、かつての従軍看護師に続き人のお世話をする人生だったとそれまでを振り返る。
「若い頃の主人はお酒が好きで家は千客万来の日々でした。男の人は寝るだけでいいなと思う事もありましたよ」
やむ終えず行ってきたお世話もあったが、それでも「時子さんのおかげ」「助かった」「ありがとう」と言われると報われる気がした。
「家のために尽くしたい」
「家庭を穏やかにしたい」
「嫌なことを言って雰囲気を悪くしたくない」
正義感を常に持ち、辛い時でも「仕方がない」という気持ちで受け入れる。
時子さんが人のお世話を続けられたのにはこんな信念があったからだ。
「自分勝手にすることは周りに迷惑をかけることであり、それを壊すことはよろしくないことである」
彼女はそれを昔の教育だったというが、そんな道徳が社会には根付いていて、地域全体が助け合う空気がしっかりあったという。
彼女は戦争をくぐり抜け、そしてその後の復興も見てきて、人間は強いし人の力はすごいという。
「でも戦争は2度としてはいけない。戦争は何もならないから」
その被害と被災したあらゆる人をその目で見てきた彼女の言葉の一つ一つがとても重たく感じた。
100年を一言で表すと「幸せ」と答えた時子さん。
「幸せだったからこそ生きてこられた。家族にも健康で幸せに過ごして欲しい」
そう願う彼女はこれからも時を刻み続ける。
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