「さがすたいる」という佐賀県が行なっている取り組みをご存知でしょうか。
お年寄りや障がいのある方、子育て中の方など誰もが安心して暮らしていけるみんなにやさしいまちづくりの実現を目指し、県民と当事者がお互いのことを知る・理解しあえる機会をつくったりWEBで発信したりしているそうです。
佐賀家族図鑑では、今回さがすたいるさんにご縁を頂いた障がいを持つ二人の女性とそのご家族を取材させて頂きました。
この大きな笑顔の女性は希望(のぞみ)さん。藤木家6人兄弟姉妹の末っ子である。そんな彼女が生まれたのは今からおよそ24年前。出産時は仮死状態だったという。
お母さんが38歳の頃だった。長女の幼稚園のイベントに参加している時に突然の破水。一緒に連れてきていた四男を園長先生に預けタクシーでかかりつけの病院に向かった。しかしその病院では設備などの問題もあり対応しきれず、国立病院にそのまま転院した。
この時妊娠わずか24週目。少しでも長くお腹の中に赤ちゃんを留めておく方が良いということで入院してから3日後に出産したという。
お母さんにとって出産するのは6人目。しかし今までの出産では聞こえてきていた泣き声がその時は聞こえてこなかった。
看護師さんによって保育器が持ち込まれると、その姿を見ることもなくすぐに運ばれていってしまった。その後、赤ちゃんの肺が潰れていた状態で生まれたため、薬で広げる処置がされたことを知ったという。
それから2日後のこと、我が子と初めて対面することになったお母さん。
わずか24週目での出産である。「ひとのかたちをしているのかな......」そんな不安を抱えていたという。
500グラムちょっとで生まれた赤ちゃんは、頭の大きさが卵くらい、血管が見えるほどの薄皮1枚に包まれていたとお母さんは当時を振り返った。
妊娠時から名前は決めていた。
男の子だったら「希」と書いて「のぞみ」。女の子だったら「望」と書いて「のぞみ」だった。
そして思いも込めてその女の子は「希望」と書いて「のぞみ」と命名された。
未熟児網膜症の疑いありと診断されていたため大村の病院で目の手術を行うなどした後、出産から10ヶ月後の9月の終わりに退院をした。
入院時は徹底的な衛生管理をされていたため、希望さんに会うことができていなかった兄弟姉妹とは初めて自宅で会うこととなる。その時の体重は平均的な出産時のおよそ3000グラムだったという。
親であるお母さんの願いはいつも同じ。
それは子供の自立である。
特に希望さんについては障がいを持って生まれたためさらに心配は大きい。父親も亡くなってしまった。
「私が先に死んでしまった後でも、この子は生きていかなければならない」 希望さんが小さな頃からずっとそのことが頭を離れることはない。
例えば入園はお願いをして一学年下の子供たちと同じにしてもらった。
それは体が小さい希望さんより成長が進んでいる同学年の子にいろんな面で手伝ってもらうことを減らし、少しでも自分でできることを増やしたいと考えたからである。
小学校に入る頃には特別支援学級に入ることについても悩んだ。
1教科45分という定められた授業時間では、なかなかついていくのが難しかった算数と国語は別のクラスにすることを選んだ。
「何で希望ちゃんは別のクラスに行くの?」と不思議がるクラスメイトへは「みんなより時間がかかるので、国語と算数は彼女のペースでさせてね」と説明してもらうようにした。
中学校に入った直後には卒業後の進路についてもすぐに考えなければならなかった。
生きる力を身につけるため、自立に必要なことを身につけられる場所を希望した。
世の中についての知識の乏しい小さな子どもには、自分でどうすればいいかの判断ができない。
保護者である親が、ある程度子の歩む道を選択していかなければならないのだ。
中学校までは守られていたとしても、その後の社会に出た時のことを見据え、障がいを持つ我が子と世の中との関わり方を、限られた情報と選択肢と時間の中で決めていかなければならない。
「母は強しです」
お母さんは笑いながらそう言うが、その苦悩は並大抵のことでないことは容易に想像できる。
他の兄弟姉妹も育て上げながら、希望さんの人生も命のある限りサポートしていく。
そこにあるのは我が子の幸せを願う気持ちにほかならない。
お母さんは我が子と世の中の関わり方を今もなお必死で模索している。
では世の中は生きていくためにサポートが必要な人たちとどう関わるのか。
世の中とは他でもない私たちのことである。
(続く)